議論の意義

ちょっと、悩んだ末、助教授にこう伝えてみた。「先生との議論するとき、先生はどちらの主張が正しいかを重要視しています。私は、そんなことには興味がなく、議論を通じて、より問題の認識を深め、価値を生み出すことに意義があると考えています。先生のどちらが正しいかという点を重要視する姿勢を変えるべきではないでしょうか」


助教授との議論で気が付いたことは、議論においては、相手の主張を完全否定するような結論志向は、建設的意見を生み出す議論からは遠いものと感じました。それは、主張の正しさに論点を置くことになるからです。実際の会話から解説します。


助教授「君は英語の勉強の仕方輪間違っている」←完全否定
私「人にはそれぞれ強みがあります。それ故、自分の強みに合った勉強方でいいと思います。」
助教授「英語は相手にメッセージを伝えようとしないと、上達しない。君のやり方は間違っている」←完全否定
私「当然そうおもいます。そして、教授の勉強方も正しいと思います」


助「君はフレイムワークに当てはめるだけで、何も考えていない」←完全否定
私「フレイムワークに当てはめるだけでは、考えは得られません。その先は自分で考えています。フレイムワークというものについて、認識が異なっているのではないでしょうか。なぜ、フレイムワークが存在し、どのように使われていると考えていますか。」
助「フレイムワークのような枠組みについての議論はしない」 ←論点ずれ


私「その判断基準はなんですか」
助「経験から判断できる」
私「私も経験ある人は判断できると考えています。でも、経験があるから判断ができるでは論理的な飛躍があると考えます。なぜ、経験があれば判断できるのだと考えますか」
助「確率論、うんぬん」


うんむ。悪い議論の典型ですね。まず、助という方のほうは、初めから相手を完全否定しているてんが、よろしくないです。相手がどういった事実を見、どういった経験からその発言をしているのかを理解しようとしなければなりません。


そして、私のほうは、主張が一般論化して抽象的になっていること、それと質問がオープンクエッションになっているなっている点を反省しなければなりません。ということに、気が付きました。これは、明らかに改善点だ。。。今後の成長に期待です。